2021年06月08日
懐かしい写真が・・・
懐かしい写真が出てきました
確か? クラブ・アイダス結成して2年目のこと
私が長野に転勤する直前に、社会人リーグ一部の優勝報告を受けた時のものですね

クラブチーム・アイダスの結成秘話も記録に留めておきましょう
あれは、3.11の年のことです・・・

アイダス夜明け前(藤スポ・アイダスのできるまで)
最後の団長 菅沼 豊 作
このチーム「藤枝卓球スポーツクラブ・アイダス(略称:藤スポ・アイダス)」の前身である
「藤枝卓球スポーツ少年団」は、1980年4月に私の父を含む数人で作られ、
これまでに700名近い子供が卓球に親しんできた。
かくいう私も、小学4年でこのチームの設立と同時に卓球を始めて以来、
現在も続けていられるのは、このチームあってこそだ。
チーム設立42年目となる今年2021年4月、
スポーツ少年団組織から脱退するのに伴って、名称変更したのだが、
そもそもの「藤スポ・アイダス」とは、ちょうど10年前に、
当時のスポ少のコーチ・保護者・OB・OGのクラブチームとして
私が立ち上げたものだった。
(※当時の正式名称は「藤枝卓球スポーツ少年団クラブチーム・アイダス」)
そして今回、改編統合とともに新代表をお願いした英田さんから、
そのころのことを形にしてほしいと依頼を受けたので、こうして、
半分あやしくなった記憶を頼りに、アイダスの成り立ちを書く運びとなった。
さて。10年前の2011年3月といえば、誰も忘れられない東日本大震災があって、
英田さんの静岡から長野への転勤が、その影響で突然の延期となった。
しかしながら、かねてより打ち合わせていた、英田さんの所属チームの解体に併せて、
地元の社会人リーグのポジションを、別のチームで引き継ぐという話は、
翌4月の新年度から予定通り行われた。これが、「藤スポ・アイダス」のはじまりだ。
そもそもしばらく前から、スポ少関係者のチームを作りたいと考えてはいた。
スポ少のかつての教え子たちが就職で戻ってきて、
チームを探していたり、まわりのコーチからもリーグ参加の要望があったり、
なにより自分としてもどこまで出来るか腕試ししたかった。
いろんなタイミングがちょうど重なったのだ。
チーム名は私が決めた。
もちろん、尊敬する英田(あいだ)さんからチームを引き継ぐ意味が大きかった。
いろいろな面で受けた影響を忘れないように、
また「定期戦」と称して何十、何百?と2人で試合をする中で、
常に真摯に勝ちにこだわる姿勢を見習いたかった。
まさか引き継いだ後も本人が静岡に残るとは思わなかったので、
生きてるうちに銅像作るみたいな変な感じになってしまった(笑)。
今や全日本ランカーにしてTリーガーの、
英田さんの息子のサトシに、当時新チームの名を伝えたところ、
「いやー、恥ずかしいからやめましょーよー」
なんて言ってたのも、今となっては良い思い出だ。
実際、彼がさらに活躍してくれたなら、この名に箔がつくってものだ。
実は「アイダス」には、もう一つ意味がある。
たまたまテレビで見た、巨人の原監督の言葉。
当時低迷していた巨人軍に2度目の監督就任した彼は声高に謳っていた、
「ジャイアンツ愛」と。私は特に野球好きでも、巨人好きでもないが、
その時の話は深く心に残った。
強いとか、弱いとかではなく、まずチームを愛そう、愛してほしい。
そう、アイダスとは「愛出す」なんだ。
私は、このチームが大好きだ。
強いとか 弱いとか、人数が多いとか少ないとか、
スポ少か スポ少じゃないかとか、そんなのどうでもいい。
このチームしか知らないが、それで構わない。
一度離れた卓球にまた戻ってきて25年もコーチをしてきたのも、
この「藤スポ」だったからだ。ただそれだけだ。
2年後の2013年、英田さんは長野へ今度こそ転勤することになった。
(※その後2020年の3月にお仕事引退され、再び静岡に戻られた)
その間アイダスは社会人リーグで、トップの一部リーグ上位にこそ名を連ねていたが、
未だ優勝は果たしていなかった。
英田さんへのはなむけに、
優勝カップを渡したい!それには年度末、2・3月の後期リーグが最後のチャンスだ。
私は当時絶対王者だったチームとの優勝決定戦の前日、
仕事も手につかないぐらいオーダーを考え続けた。
オーダーは当たった。
しかしそれで喜んでしまった私をあざ笑うかのように、チームは大逆転負けを喫した。
優勝の望みが消え意気消沈した私は、別会場のスポ少の練習にひとまず顔を出したあと、
英田さんの送別会を兼ねた打ち上げに向かった。
表彰式に出たメンバーたちがすでに集まっている(冒頭の写真参照)。
なぜかみなニヤニヤしている。
お調子者の元教え子が立ち上がり、隠してあった優勝カップを差し出した!
実はその後の集計の結果、同率の得失点差でギリギリ1位になっていたのだった。
↓ これはその時の泣き笑いの証拠写真 ヽ^^;

(おしまい 2021.6.5 梅雨の晴れ間に)


確か? クラブ・アイダス結成して2年目のこと
私が長野に転勤する直前に、社会人リーグ一部の優勝報告を受けた時のものですね
クラブチーム・アイダスの結成秘話も記録に留めておきましょう
あれは、3.11の年のことです・・・

アイダス夜明け前(藤スポ・アイダスのできるまで)
最後の団長 菅沼 豊 作
このチーム「藤枝卓球スポーツクラブ・アイダス(略称:藤スポ・アイダス)」の前身である
「藤枝卓球スポーツ少年団」は、1980年4月に私の父を含む数人で作られ、
これまでに700名近い子供が卓球に親しんできた。
かくいう私も、小学4年でこのチームの設立と同時に卓球を始めて以来、
現在も続けていられるのは、このチームあってこそだ。
チーム設立42年目となる今年2021年4月、
スポーツ少年団組織から脱退するのに伴って、名称変更したのだが、
そもそもの「藤スポ・アイダス」とは、ちょうど10年前に、
当時のスポ少のコーチ・保護者・OB・OGのクラブチームとして
私が立ち上げたものだった。
(※当時の正式名称は「藤枝卓球スポーツ少年団クラブチーム・アイダス」)
そして今回、改編統合とともに新代表をお願いした英田さんから、
そのころのことを形にしてほしいと依頼を受けたので、こうして、
半分あやしくなった記憶を頼りに、アイダスの成り立ちを書く運びとなった。
さて。10年前の2011年3月といえば、誰も忘れられない東日本大震災があって、
英田さんの静岡から長野への転勤が、その影響で突然の延期となった。
しかしながら、かねてより打ち合わせていた、英田さんの所属チームの解体に併せて、
地元の社会人リーグのポジションを、別のチームで引き継ぐという話は、
翌4月の新年度から予定通り行われた。これが、「藤スポ・アイダス」のはじまりだ。
そもそもしばらく前から、スポ少関係者のチームを作りたいと考えてはいた。
スポ少のかつての教え子たちが就職で戻ってきて、
チームを探していたり、まわりのコーチからもリーグ参加の要望があったり、
なにより自分としてもどこまで出来るか腕試ししたかった。
いろんなタイミングがちょうど重なったのだ。
チーム名は私が決めた。
もちろん、尊敬する英田(あいだ)さんからチームを引き継ぐ意味が大きかった。
いろいろな面で受けた影響を忘れないように、
また「定期戦」と称して何十、何百?と2人で試合をする中で、
常に真摯に勝ちにこだわる姿勢を見習いたかった。
まさか引き継いだ後も本人が静岡に残るとは思わなかったので、
生きてるうちに銅像作るみたいな変な感じになってしまった(笑)。
今や全日本ランカーにしてTリーガーの、
英田さんの息子のサトシに、当時新チームの名を伝えたところ、
「いやー、恥ずかしいからやめましょーよー」
なんて言ってたのも、今となっては良い思い出だ。
実際、彼がさらに活躍してくれたなら、この名に箔がつくってものだ。
実は「アイダス」には、もう一つ意味がある。
たまたまテレビで見た、巨人の原監督の言葉。
当時低迷していた巨人軍に2度目の監督就任した彼は声高に謳っていた、
「ジャイアンツ愛」と。私は特に野球好きでも、巨人好きでもないが、
その時の話は深く心に残った。
強いとか、弱いとかではなく、まずチームを愛そう、愛してほしい。
そう、アイダスとは「愛出す」なんだ。
私は、このチームが大好きだ。
強いとか 弱いとか、人数が多いとか少ないとか、
スポ少か スポ少じゃないかとか、そんなのどうでもいい。
このチームしか知らないが、それで構わない。
一度離れた卓球にまた戻ってきて25年もコーチをしてきたのも、
この「藤スポ」だったからだ。ただそれだけだ。
2年後の2013年、英田さんは長野へ今度こそ転勤することになった。
(※その後2020年の3月にお仕事引退され、再び静岡に戻られた)
その間アイダスは社会人リーグで、トップの一部リーグ上位にこそ名を連ねていたが、
未だ優勝は果たしていなかった。
英田さんへのはなむけに、
優勝カップを渡したい!それには年度末、2・3月の後期リーグが最後のチャンスだ。
私は当時絶対王者だったチームとの優勝決定戦の前日、
仕事も手につかないぐらいオーダーを考え続けた。
オーダーは当たった。
しかしそれで喜んでしまった私をあざ笑うかのように、チームは大逆転負けを喫した。
優勝の望みが消え意気消沈した私は、別会場のスポ少の練習にひとまず顔を出したあと、
英田さんの送別会を兼ねた打ち上げに向かった。
表彰式に出たメンバーたちがすでに集まっている(冒頭の写真参照)。
なぜかみなニヤニヤしている。
お調子者の元教え子が立ち上がり、隠してあった優勝カップを差し出した!
実はその後の集計の結果、同率の得失点差でギリギリ1位になっていたのだった。
↓ これはその時の泣き笑いの証拠写真 ヽ^^;
(おしまい 2021.6.5 梅雨の晴れ間に)
